「あなたは頭がいいんだね」vs「一生懸命やったね」

教育に関する原稿を書くにあたって、足りない知識を
チューンするためサイエンス系のサイトを片っ端から
まわっていたら、とても興味深いレポートに行き着いた。

ドゥエック氏の最もよく知られた研究は、クローディア・ミューラーとともに、
ニューヨーク市内の12の学校で行ったものだ。研究では、5年生400人あまりに、
言語を用いない比較的やさしいパズルを課題として与えた。
テスト終了後、研究者たちは生徒たちに点数を伝え、簡潔な言葉でほめた。
半分の生徒には彼らの知性をほめた(「あなたは頭がいいんだね」)。
残りの半分には彼らの努力をほめた(「一生懸命やったね」)。


ドゥエック氏は最初、このほめ方の違いが大きな違いを生み出すとは考えていなかった。
しょせん言葉にすぎないからだ。しかし実験の結果、5年生に与えられたほめ言葉に
劇的な影響力があることがわかった。


まずは、最初の生徒たちにまた別のテストを2種類与え、生徒たち自身にどちらか好きなほうを選ばせた。
ひとつは最初のものより難しいパズルだが、やればとても勉強になると説明された。
もうひとつは、最初のものと同様の簡単なテストだ。努力をほめられた子どもたちは、
90%近くが、難しいほうのパズルを選択した。一方、賢さをほめられた子どもたちは、
ほとんどが簡単なほうのテストを選んだ。ドゥエック氏によると、知性をほめられた子どもは、
自分を賢く「見せる」ことに気持ちを向けるようになり、
間違いをおかすリスクをとれなくなるのだと説明している。


次に、もっと難度の高いテストが与えられた(5年生に対して8年生向けのテストが与えられた)。
賢さをほめられた生徒たちはすぐ挫折してしまったが、努力をほめられた生徒たちは、
このテストに熱心に取り組んだ。そして、このテストを受けた後で、両群の生徒たちは、
成績が自分より低かった生徒と高かった生徒のうち、どちらかのテスト用紙を見る選択肢を与えられた。


賢さをほめられた生徒たちは、ほぼ全員が、自分よりテストの出来が悪かった生徒と自分を比較することで、
自尊心を強化するほうを選んだ。これに対し、努力をほめられた生徒たちは、
自分より成績のよかったテストを見るほうを選ぶ確率が高かった。彼らは失敗を理解し、
失敗から学び、よりよい方法を編み出したいと思ったのだ。


最後に、最初のテストと同様の難易度であるテストが行われた。努力をほめられた生徒たちは、
テスト結果が有意に上昇し、平均スコアが30%伸びた。彼らは、たとえ最初は失敗しても
挑戦することを望んだので、より高い成績を得たのだ。この結果をさらに際立たせるのが、
最初にランダムに「賢い」グループとされた生徒たちのスコアだ。こちらは前回から20%近くも低下した。
失敗の経験でやる気をくじかれた「賢い」生徒たちは、実際に退歩してしまったのだ。


生徒の「賢さ」をほめることの問題は、教育というものの心理学的なリアリティを誤った形で示すことにある。
それは、「間違いから学ぶ」という最も有益な学習活動を避けさせてしまう。間違いをおかすことで
生じる不愉快な反応を経験しない限り、われわれの脳が既存のモデルを修正することはない。
いつまでも同じ間違いをおかし、自信を傷つけないために、自らを成長させる機会を逃し続けるのだ。

サミュエル・ベケットは適切にもこう言っていた。
「試してみたら失敗した。それがどうしたというのだ。もう一度試せ。もう一度失敗し、よりよく失敗するのだ」


う〜ん読めば読むほど面白い。
こうした視点は、教育のみならず、あらゆる領域、
たとえばファッションや飲食、ホテル、各種販売など、ありとあらゆるサービス業の
基本マニュアルになるような話だし、何より「人に教える」「人にレクチャー」する
ポジションの人間にとっては、意識すべき必須のタームではないだろうか。


さらにいえば、こうした指向は子どもより大人の方が当てはまるような気がする。
なぜならどう考えても「自尊心を強化する」については大人の方が上手だからだ。


あと学習だけでなくスポーツ指導に関しても大いに参考になるのでは(というよりなる)。


たとえばロードバイクに当てはめてみると(またかよ)

「あなたは自転車が速いんだね」
「あなたは平地が速いんだね」
「あなたは登りが速いんだね」
「あなたは下りが速いんだね」


仮にそう塾長に言われた人は上記のレポから換算すると
出力が20%ダウンすることになる(なんでやねん)。


逆に…

「aka-madoneさん、平地、一生懸命やったね」
「aka-madoneさん、登り、一生懸命やったね」
「aka-madoneさん、下り、一生懸命やったね」
「aka-madoneさん、ローラー、一生懸命やったね」


そう言ってもらえるだけで、上記のレポから換算すると
出力が30%アップすることになる(もうええから)。


人間はある意味、言葉に支配された存在なのか。
逆に言葉とはそれほどベクトルを内包した存在なのか。


興味は尽きないね。